堀内孝雄の経歴【アリス】学生時代は?学歴(小学校、中学校、大学)

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堀内孝雄の経歴

○1964年 15歳

桃山学院高校に入学

○1964年-1967年 15歳-18歳

軽音楽部に所属し、軽音楽部の部長を務める

○やしきたかじんの同級生で「やしき」「べーやん」と呼び合う仲

○後輩部員には、中川ヒロシがいる(平和勝次とダークホース:メジャー曲は200万枚の大ヒット)

○1967年 18歳

京都産業大学に入学

○京都産業大学を中退

○1970年 21歳

アリスのメンバーに誘われる

ロック・キャンディーズのリーダーだった谷村が、同音楽サークルで実力を認めていた堀内孝雄を誘う

○1971年 22歳

ビジネスホテルの大阪帝国ホテルで、アリスを結成。このときは2人。矢沢透の加入を前提にしたもの

○1972年 22歳

「走っておいで恋人よ」でデビュー(ジャケットは堀内孝雄と谷村新司の二人だった)

○1972年 22歳

矢沢透が正式に合流

○1972年~1975年 22歳-25歳

「明日への賛歌」「愛の光」「青春時代」「二十歳の頃」「紫陽花」とほとんど売れなかった

とにかく地道なツアー活動を行っていた。「特急の停まる市の市民会館はほとんど行って歌った」と豪語するほどで、1974年には年間303ステージを実行。インターネットが無かった時代ならではと言える

○1975年 25歳【転換ポイント】

ウッディ・ウーの「今はもうだれも」をカバーして、初のオリコンシングルチャート20位内を達成(11位)

地道な草の根活動でファンを増やしていたのも事実だろう。

堀内孝雄の経歴【ヒット後】

○1976年から1978年 26歳から28歳

「帰らざる日々」「冬の稲妻」「涙の誓い」「ジョニーの子守唄」とヒット曲を連発。「遠くで汽笛を聞きながら」「さらば青春の時」はオリコン51位、39位と伸びなかったが、ほかはすべて20位内、「冬の稲妻」以降は10位以内。

○1978年の活躍は特にすごかった

日本人アーティスト初の武道館3日間公園を成功(全日満員)その後も何度も武道館を満員にするコンサートを開く

全国の主だった音楽ホール(後楽園、甲子園、横浜スタジアム、東京厚生年金会館ホール、大阪フェスティバルホールなど)をほとんど制覇し、その全てで満員の客を呼ぶほどに人気があった

○1978年 29歳(絶頂かつ暗雲)

「チャンピオン」で初のオリコン1位を獲得

オリコンチャートで頂点にたどり着くというこれ以上無いほどの絶頂にあったアリス。しかし堀内孝雄の中で、谷村新司への劣等感が広がる。

谷村新司は2週間前に山口百恵に楽曲「いい日旅立ち」を提供。週間オリコン3位、年間では20位に輝いたのだ。

○1980年 31歳(転換ポイント)

谷村新司のソロ「昴-すばる」が週間オリコン2位、年間12位に輝く大ヒット。堀内孝雄の中で、活動停止の思いが固まる契機となる

堀内孝雄、アリスを活動停止を申し出る

○1981年 32歳

堀内孝雄から谷村新司に、谷村新司から矢沢透に解散の意向が伝えられる。谷村も矢沢も了承し、活動停止が決定

○1981年 32歳

アリス活動停止を記者会見。

○1981年 32歳

海外ツアー含め、11月7日の後楽園の「アリスファイナル」を最後に活動停止

○1981年~1985年

解散後 ソロ活動伸び悩み

○1985年

谷村新司に再始動の相談を持ちかけるも、「アリスはつらいときに逃げる場所ではない」「活動停止をしたら簡単には戻ることはできなくなる」と言われる

○1987年以降に、断続的な再始動

1987年にアルバムとシングル発売、2000年に阪神・淡路大震災追悼コンサート、紅白出演、2001年には武道館を満員にするコンサートを開く。2005年にも再び紅白に出演。いずれも一時的なもの

○2009年に本格再始動を発表した(3人が還暦を迎えるタイミングだった)

○2013年にはオリジナルアルバム「ALICE XI」を発売し、オリコンチャートは17位

堀内孝雄の学歴(高校、大学)

桃山学院高等学校:51~72(コースによって違う)

京都産業大学:47~55(中退)

堀内孝雄がどのコースだったかという情報はないものの、高校と大学の偏差値を鑑みて、一般的なふつうのこーすだったのではないでしょうか。

堀内孝雄の学歴は、並からちょっと上52/53程度と予想できます。堀内孝雄は軽音楽部の部長だったみたいですし、歌手としても活躍していますからね。